「大巨人」「世界8番目の不思議」「人間山脈」「1人民族大移動」と、その巨体から数々のニックネームを付けられたアンドレ・ザ・ジャイアント選手。
1970年代から1990年代にかけて活躍したトップレスラーです。
この記事では、アンドレ選手の伝説を紹介します。
早速みていきましょう!
アンドレ・ザ・ジャイアントの伝説
10代の頃は足が早かった
アンドレ選手の身長が急激に伸び始めたのは、15歳の頃からです。
しかし、12歳の頃にの身長が190cmを超えている少年でした。
学校に行くためのスクールバスには乗れずに、父親の友人のトラックで通学していたんだそうです
10代の頃のアンドレ選手は
- サッカー
- ボクシング
- レスリング
- ラグビー
と、多様なスポーツを楽しんでいます。
190cmを超える身長でしたが、100mを11秒台で走れるほどの俊足な少年でした。
年収が世界一のプロレスラー
1964年にプロレスラーとしてデビューしたアンドレ選手。
1970年に国際プロレスに参戦するために来日しました。
その後アメリカのWWWF(現WWE)に参戦すると、アンドレ選手の人気が爆発します。
年俸が約1億2000万円(当時)となり、1974年のギネスブックに「世界一稼いだプロレスラー」として認定されました。
9万人の観客を興奮させる
1987年WWFで行われた「レッスルマニア3」で、アンドレ・ザ・ジャイアント対ハルク・ホーガンの一戦には、93,173人の観客が集まりました。
観客が1番盛り上がったシーンは、ホーガン選手がアンドレ選手をボディスラムで投げた瞬間です。
会場に詰めかけた観客は
「アンドレが投げられたぞ!」
と、大興奮していました。
200kgを超えるアンドレ選手を、投げられるレスラーは多くありません。
日本人だと
- アントニオ猪木
- 長州力
- ストロング小林
この3人です。
他にはハルク・ホーガン選手やエル・カネック選手、スタン・ハンセン選手がアンドレ選手を投げています。
ハンセン選手は、アンドレ選手を投げたことがブレイクしたきっかけとなっています。
WWE殿堂入り第1号
アンドレ選手が亡くなったのは1993年です。
父親の葬儀に参加するために自宅に向かったところ、自身も急性心不全で亡くなってしまいまいした。
以前アンドレ選手が所属していたWWF(現WWE)は、功績を称えるという意味で、WWF殿堂を創設。
初の受賞者がアンドレ・ザ・ジャイアント選手です。
1996年までは毎年表彰式を行ってましたが、1度中断。
2004年に復活し、現在も続いています。
日本人では
- アントニオ猪木(2010年)
- 藤波辰爾(2015年)
- 獣神サンダー・ライガー(2020年)
が殿堂入りを果たし、その歴にの最初にアンドレ・ザ・ジャイアントの名前は刻まれています。
まとめ
アンドレ選手の伝説を紹介しました。
規格外の体を持っていましたが、プライベートでは映画を好み、よく部屋で鑑賞していたそうです。
外出すると街で目立ってしまうので、1人で過ごすことを好んでいました。
入場するだけで観客を呼べる、素晴らしいレスラーでした。
最後まで読んでいただきありがとうございます!