「プロレスvs空手」
1991年にスタートした、新日本プロレスと誠心会館の団体抗争のきっかけは、本当に些細な事でした。
誠心会館の自主興行に参加していた新日本プロレスの小林邦昭選手が、誠心会館の若手に対して「ドアの閉め方が悪い」と、注意を行います。
注意を聞き取れなかった若手が小林選手に聞き返したところ、小林選手は口答えをしたと判断。
誠心会館の若手に対して暴行を加え、大怪我をさせてしまいます。
誠心会館側も抗議を行いますが、青柳政司館長は新日本プロレスに参戦中のため、穏便な解決を望みました。
しかし、怒りが爆発した弟子たちは、小林選手を試合前に襲撃。
小林選手を病院送りにしたことが、抗争のスタートです。
新日本プロレスvs誠心会館
まずは、抗争に参加する主なレスラーと選手を紹介します。
新日本プロレス
- 小林邦昭
- 越中詩郎
- 小原道由
誠心会館
- 青柳政司(抗争初期は新日本プロレス側についている)
- 齋藤彰俊
- 田尻茂一
- 来原圭吾
誠心会館の青柳館長は、弟子たちの暴走を止めようとしていました。
しかし、弟子たちの怒りは収まらず、青柳館長も「俺を敵にまわしていいのなら新日本とやれ!」と、弟子たちを突き放します。
1992年1月4日の東京ドーム大会で、誠心会館の面々がリングをジャック。
挑戦状を読み上げ、新日本プロレスと誠心会館の抗争がスタートしました。
小林邦昭vs齋藤彰俊
抗争初戦は1月30日の大田区体育館で行われました。
誠心会館側は、新日本プロレスに挑戦状を叩きつけたものの、現場監督の長州選手は
「新日本プロレスはプロレスを見せる団体だ」
と、この2人の試合を、正式な試合として扱いませんでした。
メインイベント終了後に「正式な試合ではありませんが、見たいお客さんは残ってもいいですよ」というスタンスで行われた小林選手と齋藤選手の試合は、入場テーマすら流れない異様な空間で行われます。
試合は齋藤選手のハイキックが小林選手の後頭部に決まり、TKOで齋藤選手の勝利。
この試合後に発売された週刊プロレスでは、齋藤選手は空手家として表紙を飾る快挙を成し遂げました。
越中・小林組vs齋藤・田尻組
齋藤選手は、ヤングライオン杯の優勝者である小原選手にも勝利。
タッグマッチで越中選手を迎え撃ちます。
この試合でプロレスデビューをした田尻選手が、最後はスリーパーホールドで絞め落とされて敗北、
新日本プロレスは、誠心会館との抗争で初勝利を収めます。
試合終了後も誠心会館サイドに攻撃を加える新日本プロレスのレスラーに対し、青柳館長が止めに入ります。
これまでは新日本プロレス側についていた青柳館長も、誠心会館側に戻る形となり、抗争は最終戦へと向かっていきます。
青柳館長出陣
3月9日に行われた試合では、青柳館長が初めて抗争に参加しました。
小林・越中組vs青柳・齋藤組の試合では、越中選手の攻撃が齋藤選手の目を突くというアクシデントが発生。
急遽、齋藤選手の代役として来原選手が投入されますが、1分17秒で絞め落とされてしまいます。
この試合がプロレスデビューだった来原選手には、荷が重すぎたのかもしれません。
誠心会館サイドは1vs1の決着戦を要求し、因縁の「小林vs齋藤」と「越中vs青柳」という試合が組まれました。
辞表と看板をかけた最終戦
完全決着戦を迎えた新日本プロレスvs誠心会館の最終戦は、両国国技館と千葉ポートアリーナの2連戦で行われます。
初戦に行われた小林選手と齋藤選手の試合では、小林選手が「辞表」齋藤選手が「誠心会館の看板」をかけた大一番です。
両者が流血するという凄惨な試合でしたが、小林選手が羽折り腕固めで齋藤選手の肩を脱臼させての勝利。
翌日、看板を奪われた誠心会館は青柳館長が出陣。
越中選手との一騎討ちを行いますが、ドラゴンスープレックスで敗北し、新日本プロレスの2連勝で抗争が終了します。
試合後はノーサイドとなり、現場監督の長州選手が齋藤選手をべた褒めします。
看板の返却を申し出ますが、誠心会館側はこれを拒否。
しかし、齋藤選手と長州選手が握手を行い、抗争は一応の決着がつけられました。
まとめ
新日本プロレスと誠心会館が抗争を繰り広げた事件を紹介しました。
完全なる異種格闘技の試合でしたが、誠心会館の斎藤選手は、子供の頃に長州選手にあこがれて育っていたというエピソードもあります。
現在もノアでファンキーに活躍している齋藤選手ですが、この抗争がプロレスと関わるきっかけになったのは間違いありません。
最後まで読んでいただきありがとうございます!